寺泊町史あれこれ

山崎氏は昭和59年に寺泊町史編さん事業が発足した時、現職の寺泊町公民館長と兼ねて編さん室長に任ぜられました。
 以来8年間に、『寺泊町史−全6巻』『通史2巻』の発行をもってその大任を果されました。
 このページでは、氏が町史を手軽な読み物としてまとめられた「寺泊町史あれこれ」から、ご厚意により抜粋して掲載いたします。


山崎 龍教
略  歴
大正9(1920)年1月生まれ
大正大学高等師範科卒業
寺泊町立寺泊中学校教諭
新潟県立与板高等学校
寺泊分校主任
寺泊町公民館長・
同社会教育指導員
寺泊町町史編さん委員・
同編さん室長
浄土宗生福寺住職


◇ 目 次 ◇

日本史にも大きく関わる山ノ脇地区の多彩な歴史

朱印所領の海雲山西寺、弘智法印のミイラを安置

観光の桜か畜産の牧草か
分水堤防春の騒動

当新田出身の漢学者大森子陽
狭川塾で少年期の良寛を教える

観光寺泊町の発展
古い歴史と豊かな自然


日本史にも大きく関わる山ノ脇地区の多彩な歴史


大河津南部地区(山ノ脇学区)は、古い歴史と多くの伝説を秘めた地域である。近年発見された大字町軽井の大久保古墳群は、本格的な発掘調査には至っていないが、4世紀かた5世紀にかけて、この地方に勢力を持った首長が築造したものであろうと推定されている。この時期には、五分一稲葉遺跡や横滝山遺跡が形成されており、8世紀初頭に存在したとされる横滝山の廃寺が、地方の有力者の私寺として建立されたとあれば、その周辺は、権力者によって早くから開発されたものと考えられるのである。
 鎌倉時代から南北朝時代にかけて、この地域は中央の政権とも深い関わりがあった。建武年中(1334〜36)後醍醐天皇に組みする新田一族の細屋馬之助が高内城を築いて周辺に勢力を張り、延元2(1337)年には後醍醐天皇が足利尊氏に都を追われて吉野山に遷幸されるが、新田義貞の居城の金ヶ崎(福井県)が攻略されるに及んで、城主瓜生判官の一族はこの地に逃れて、岩方に同名の金ヶ崎城を築いて越後における南朝軍の拠点とした。しかし、延元3年には、京都の室町に幕府を開いた将軍足利尊氏がこの地域一帯を所領する。興国2(1341)年、宗良親王が南朝の退勢を挽回せんとして寺泊に駐留されるが、周辺はすでに北朝軍の勢力下にあり、親王の悲願も空しく南朝はやがて滅亡するのである。
 その後もこの地域は中央との関わりを持続している。永徳2(1382)年の「上杉憲方書状」によると、当時小加礼井(こかれい)と称した町軽井・入軽井地区が、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮の神官氷室判官正真興の所領であった。しかし、遠い鎌倉にあって荘園の維持・管理が困難なため、至徳4(1387)年に安田(柏崎市)の毛利憲朝へ25貫文で永代売買している。往時この地域が中央の要人の所領となったのは、開発の古さを物語るものであろう。ここは、信濃川の灌漑にも恵まれた穀倉地帯であり、出雲崎・長岡・三条に通ずる水陸交通の要所であるとともに、背後に西山丘陵をひかえ、前面に信濃川を視野いっぱいに収める要衝であった。ゆえに、鎌倉時代に大泥棒として、天下にその名をはせた熊坂長焚(くまさかちょうばん)も、しばらくここ田尻に住んで、高台の「物見松」で旅人を見張って襲撃し、金銀財宝、馬ごと略奪したという。
 口碑といえば、入軽井にある織田信長の愛妾杉乃局の塚、信長と戦って討ち死にした浅井長政を祀る宮山の祠、また、信長が石山本願寺を攻めたとき、真宗門徒として参戦した岩方の小黒助左衛門が顕如上人から賜ったという六字の名号、その信長の弾圧を避け、真宗の教法宣布の線に沿って、能登の僧慶岸(きょうがん)がこの地へ来て建てた常禅寺、遡って佐渡配流の順徳上皇から賜ったという矢田の山崎家に伝わる御所桜と御所甕、下っては戊辰戦争で激戦地となって、大勢の犠牲者が常禅寺に葬られたという故事の数々は、大きく日本の歴史に関わるのである。

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朱印所領の海雲山西寺 弘智法印のミイラを安置


西生寺の草創は古く、奈良時代の天平5(733)年、各地を行脚していた都(奈良の高僧行基が開いたといわれている。昔は深山幽谷の閑寂境であったこの地も、押し寄せる時代の波で今は観光化している。樹齢800年と伝えられる境内の大銀杏を指しながら、案内の住職は「鎌倉初期に越後へ流された親鸞聖人がこの寺へ参詣でたした折、地に挿した杖が芽をふき、枝が繁ってこんなに大きくなった」と縁起を説き、「霊場と景勝を求めてここを訪れる人の数は多い」と強調する。親鸞聖人が念仏停止の法難で越後国府(現上越市)へ流されたのは建永2(1207)年、34歳の時である。5年後に赦免されて越後を離れるが、西生寺参詣は師が晩年、20年布教に努めた関東の地から単身京都へ向かう道中のことであろうか。親鸞の妻恵信尼(えしんに)が書いた『恵信尼消息(しょうそこ)』に「栗沢は何事やならん、のづみと申す山寺に不断念仏始め候」と、師を偲んでいるが、「のづみの山寺」は、寺伝に言う親鸞聖人西生寺入山説の裏付けになるものと思われる。
 明治16年の『新潟県寺院明細帳』によると、この寺は、開基後幾星霜か経て零落(れいらく)、平安末期の久安元(1145)年、奈良興福寺の僧寿圭(じゅけい)が北陸巡錫(じゅんしゃく)の折、ここに滞留して荒廃していた寺を再興、応仁・文明の頃再び衰退、その後中興、明応3(1494)年震災のため破壊、国内の勧財を得て再建、明暦3(1657)年領主松平大和守より除地高5斗6升2合付与と記されている。付与米については、それ以前に朱印地下付願いが出され、慶安2(1694)年5月に出雲崎役所から「古跡である西生寺は、寺内高10石、こと度朱印頂戴致したき旨、代官所へ届けた」という文書が通達されている。朱印地というのは、将軍がその所有権を公認した土地のことで、朱印状を得る権利は大きい。
 この寺を別の面から有名にしたのは、日本最古といわれる弘智法印のミイラである。弘智法印は高野山における修行の後、各地を行脚してこの地に入り、厳しい修行の中で貞治2(1363)年10月、即身成仏をされたと伝えられている。その後このミイラは越後七不思議の一つに数えられて、今も参詣者は跡を絶たない。
 広い境内には数棟の古い堂宇が点在しているが、その中で弘智堂と客殿寂静堂(じゃくじょうどう)の結構振りに目が注がれる。弘智堂は16坪の小堂ながら格天井や欄間の彫刻は精巧で、特に向拝の透かし彫りはすばらしい。元禄14(1701)年建築の棟札(むなふだ)がある寂静堂は寄棟造りで、84坪の堂内は幾つかの間に仕切られ、長岡藩の財政援助もあってか、内陣右手に「長岡座敷」の室名も伝えられている。また、近年新設された宝物殿には、弘智法印遺品、良寛・文兆・応挙の遺墨など多くの逸品が展示されている。

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観光の桜か畜産の牧草か分水堤防春の騒動


大河津分水の桜は今年も大勢の花見客で賑わった。しかし人々は爛漫と咲き香る桜花に見とれて、分水の苦難の歴史や70年前に旧地蔵堂町と大河津村の争いによる桜樹大量伐採の騒動を知らない。
 長年の悲願であった大河津分水は明治42年に起工、大正11年に通水、同13年3月に竣工式が行われた。地元地蔵堂町は竣工を期に分水公園保勝会を組織して分水路の両堤防16キロにわたって数万本の桜を植え、加治川の桜と双璧となる桜の名所にする計画を立てた。桜の一部は工事と並行して植樹されてきたが、新たに多数の桜を植えることにした。この計画に対し、大河津村は異なる遠大な構想があった。この村は分水路用地として田畑数百町歩を政府に買い上げられ、その後の生計に農家は苦慮していた。多くは分水工事の人夫として働きながら、田畑に代わる恒久の生活安定の場を模索した。その結果、分水路双堤に繁茂する豊富な牧草を利用して畜産振興の方針を立てた。そして畜産組合を組織し、乳牛を大量に飼育して乳汁利用によるバター製造所を建設、数年後には県下の畜産家と協力して大規模練乳所を設置する新規な構想であった。
 ところが数年前から牧草予定地として両堤防に桜の苗が植えられ、今回保勝会の設立によって数万本の植樹がされれば、桜樹の生育につれて牧草は繁茂を妨げられ乳牛飼育の畜産業は成り立たなくなる。しかも花見の季節ともなれば、華美な服装の観光客が花の下で狂態を演じる。これを見る醇朴な村の青年子女は悪影響を受け、農村の美風が破壊されるして地蔵堂町の観光指向に反対したのである。そして同村出身衆議院議員中村貞吉氏、県議会議員藤田善大夫氏の実行委員に委嘱しして内務大臣に陳情する一方、各所で反対集会を開き気勢を挙げた。
 しかし必死の反対運動も空しく大正14年4月、地蔵堂町側は保勝会の計画に基づいて桜樹の植え付けを始めた。これを見た大河津村の議会議員は直ちに引き抜き交渉したが埒が明かず、大騒動となった。4月13日『中越新報』はこの事件について「地蔵堂側が桜苗木五百数十株を堤防上に植培せるにより大河津委員より厳しく談判せる処あり、もし苗木を取り去らざれば覚悟ある旨最後通牒を発すると、保勝会の山宮氏興奮して覚悟あらば勝手にせよとの放言あり、交渉員憤激、その翌日に至り堤上の桜樹五百数十本が不意に切り倒されしにより、山宮氏狂気の如くに県庁に飛び込み40度以上の大熱を揚げて県に迫る処あり、中村・藤田の両氏を縛ってくれとの大談判、県は正式に告訴を見ざるうちは人を縛るなど出来ざるをもって、三条裁判所へ駆け込みたる頃は正に寒暖計が破裂せんとするの熱度なりし」と報じている。
 この後日談は分水の桜並木が語りかける。調停委員会は分水堤防を桜の名所にする道を選んだのである。

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当新田出身の漢学者大森子陽 狭川塾で少年期の良寛を教える


 良寛が十一歳から六年間、大森子陽の塾で学んだこと、その後良寛が岡山県玉島での長い修行から越後に帰って来た時には子陽先生は既に亡くなられていたと聞いて、その墓前で涙を流しながら『子陽先生を弔う』の詩を詠んだことはよく知られている。
 大森子陽は元文三(1937)年、東川原崎新田(当新田)の浄花庵(現萬福寺)に身を寄せる大森直好の長子として生まれた。少年時代は現在の白根市に塾を開いていた釈大舟に就いて漢学を学び、十三歳の時江戸へ出て著名な漢学者滝弥八(鶴台(カクダイ))に師事して学問を深め、また他の学者の門を叩いて経済・詩文を習得した。江戸での子陽の生活は苦しく、親許からの仕送りもなく文字通り苦学であった。地蔵堂(分水町)の友人中村子圭宛ての手紙には「一部屋借りて手鍋で自炊し、先生方の送り迎えで朝寝もならず、暮れ六つ(午後六時)にならないと帰宅もできず、その上、例の一物(お金)不足にて、食物も焼味噌ばかりで言語に絶する生活振りに候」とあり、末尾には「誠に哀れなる状態に候へ共、学問に進みおり候へばいずれ再会の時に語り合いたく存じ候」と結んでいる。一方、子陽は医術にもくわしいことから、病人の求めで投薬治療もして若干の礼金を得ながら、刻苦勉励したのである。
 明和四(1767)年、子陽三十歳の時に郷里の父が病に倒れたため帰郷した。幸い父の病気は小康状態を得たので翌年、地蔵堂の狭川(土地の人は「せばがわ」という)のほとりに『狭川塾(きょうせんじゅく)』を開いて近郊の子弟の教育に当たった。子陽はその時ですに『北陸四大儒』の称せられていたことから、その学徳を慕って大勢の子弟が入門した。その中に良寛・原田鵲斎(じゃくさい)・富取之則(ゆきのり)・彦山(げんざん)らがいた。良寛は安永二(1773)年、十六歳までここで学んだが、秀れた詩文や豊かな人間性は子陽の薫陶に負うところが大きいとされている。
 こうして狭塾の師範として地域子弟の教育に専念した子陽は安永(1777)年、四十歳の時に一念期するところがあって塾を閉じ、妻と離婚、一子宗吾を乳母に頼み、知己の僧北潮と東北地方へと旅に出掛けるのである。そして子陽の学識を知る出羽国(山形県)鶴岡藩の藩士柏倉要卿の要請により、鶴岡に留まって家塾を開き、藩の子弟の教育に当たって、二度と郷里に帰ることはなかった。子陽はここで再婚し、一子求古を得たがまもなく離婚した。鶴岡における師の学徳は藩下に鳴り、その声望を慕って門弟は塾に溢れたという。子陽は鶴岡に在ること十四年、寛政三(1791)年五月、享年五四歳で没したが、大勢の門弟がその臨終を看取り、盛大な葬儀を営んだという。遺骨は後に郷里に送られて萬福寺に埋葬されたが、子陽の墓は現在町の文化財に指定され、その脇に良寛の詩碑が建立されている。

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観光寺泊町の発展 古い歴史と豊かは自然


 寺泊は由緒ある歴史や文化遺産に恵まれた町である。従って海や魚と共に早くからこの方面の観光開発が考えられ、保存、整備が行われてきた。寺泊町長を経て新潟県議会議員に選出された本間健四郎は、明治35年、順徳上皇行宮御遺蹟である大町の元菊屋五十嵐邸跡が、主家の没落によってすべて他人の手に渡っているのを憂え、その一部を買い戻して寺泊区有財産に編入し、史跡公園として整備した。大正4年10月に結成された寺泊実業協会の事業にも、寺泊案内記の編纂、名所絵葉書の発行等、寺泊の史跡観光の部分が盛り込まれている。『新寺泊案内』には、「我が寺泊は、由来多くの名蹟と明媚なる山水を有するのみならず、海水浴場として其の名高く・・・・・・・」、と述べている。

 第二次世界大戦後は、逸早く片町の照明寺観音堂、良寛仮住の密蔵院から船絵馬のある白山媛神社、順徳上皇・藤原為兼・宗良親王の史跡である聚感園(しゅうかんえん)、良寛の妹むら子の墓がある上田町に至る史跡散策コースも設定され、『越し歴史自然ルート』、別名『ロマンス小径』とも言われて、今も観光客の人気を集めている。道中、生福寺台地から佐渡・弥彦の眺望と眼下にひろがる市街地の景観は特にすばらしい。

 平成3年、寺泊町商工観光課発行の『詩情豊かな寺泊の史跡』には、冒頭、「風と潮が運んだ文化の地寺泊」として、次のように記している。「寺泊が日本の歴史の上に初めて登場するのは、弘仁13(822)年、国分寺の尼法光が旅人の難儀を救うために伊神の渡戸浜(わたべはま)(寺泊)に布施屋(無料宿泊所)を設け、渡船2隻を置いたという『袖中抄』(しゅうちゅうしょう)の記録であります。寺泊の地名もここに由来すると言われています。歴史の上でこの町が有名になったのは、順徳上皇をはじめ、日蓮聖人、藤原為兼や金山送りの無宿人たちが、不遇をかこちながらここから佐渡へ渡っていることです。

 江戸時代の寺泊は北前船の寄港地であり、日本海の要港として栄えました。『万(よろず)覚帳』や『町御用留』の記録によると、越後米の移出港として日に千俵の米が積出され、また、北国街道の宿場町としても、千客万来の活気に溢れていました。渡部と寺泊を結ぶ街道の峠やその周辺に今も『千駄越』(せんだごえ)という地名が残っていますが、往時、米俵をつけてここを通った馬の賑わいが偲ばれます。一方、精神文化もここに起こり、白鳳期の存在が検証された横滝山の古い寺院や、奈良時代草創と伝えられる幾つかの寺との関わりもあり、寺泊の名が示すように由緒ある多くの寺が建ち、人々の信仰心も篤く、人情豊かな町として今に至っています。そして、鎌倉に関わる古い歴史と多くの寺と4つの海水浴場によって『北の鎌倉』『日本海の鎌倉』をキャッチフレーズに『観光寺泊』を期しているのです。
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